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2006年度聖句 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」 
マタイによる福音書 5章7節

  今、もっとも求められる人間の能力の一つは、「コミュニケーション能力」と言われています。Eメールやインターネット等のメディアを通して、不特定多数の人との関わりも容易な時代です。その一方で、相互に心を開き合い助け合う関係が希薄になり、親子関係や身近な者との信頼関係までも、徐々に失われていく傾向にあります。コミュニケーション能力を高め、信頼関係を築き上げるためには、どうすればよいのでしょうか。
その答えを聖書に求める者は少ないかもしれません。しかし聖書は神と人との関わり方を基本に、人と人との確かな信頼関係の回復を示唆する知恵を数多く備えています。 その一つが、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイによる福音書5章7節)です。この聖句を2006年度の聖句として選びました。主イエスが「山上の説教」で語られた8つの幸福の中の一節です。
人間関係が粗雑になり、自分の身近な人以外の者とは、口もきかず、自分の生活領域のみを大切にする社会風潮の中で、仲間以外の者とも相互に心を開き、助け合い、深い信頼関係を築くことこそ、幸せな生活の大前提だと思います。 
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
主イエスは憐れみ深さに根ざした人間関係、そこに幸福の原点があると教えられたのです。憐れみ深さを人間関係の土台に据えること。人を憐れみ深く思うことは容認できても、人から憐れみを受け、同情を買うようなことは、むしろ、誰もが避けたいことです。
しかし、主イエスは断言されたのです。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」と。これは主イエスの負け犬の遠吠えのような言葉、開き直りの屁理屈ではありません。
聖書の「憐れみ」は「愛」、「救い」の意味をも含む重要な言葉の一つです。親が、わが子に対して抱く濃密な、特別な愛情が「憐れみ」です。「ああ、かわいそうに」と、他人の惨めな姿を見て、同情するときの感情ではないのです。他人事では済まされない、親子や家族、身内の者同士の中でしか、生まれない熱い思いが、聖書の「憐れみ深さ」です。
この「憐れみ深い」関係を第一に考え、常に大切にする者こそ、主イエスご自身なのです。主イエスは私たちをとことん憐れみ深く思う神、あふれるばかりの愛をもって、その関係をを大切にされる神なのです。
はたして、私たちの側は、憐れみ深い心を持ち合わせているでしょうか。憐れみの反意語は「残虐」、「冷酷」です。人の憐れみ深さは、利害がからむと、「残虐」、「冷酷」に変わる危険を常にはらんでいます。しかし、主イエスの憐れみ深さは違います。主イエスは正義、公平を重んじる一方で、同時に憐れみ深さを大切にされる神なのです。 正義、公平が憐れみを包み込み、憐れみが正義、公平を包み込んでいるのです。
誰もが弱さと破れを持っています。人は何度も失敗し、挫折することを避けることはできません。その中で、主イエスの憐れみ深さの必要性に気づくとき、自分の心がいやされ、心が満たされ、幸福と結びつく事柄となるのです。
人と人との絆がほつれやすく、コミュニケ−ション能力を低下させる材料が多い中で、憐れみ深い関係を追い求めること。憐れみ深い関係を何人の者と持つことができるか、それが幸せの一つのバロメーターになることは確かなことです。

宗教主任 鳴坂明人