いかなる事情のもとでも、人間の命には意味と価値があるはずです。
フランスの作家モーリャックの墓碑には「人生には意味がある。行き先がある。価値がある。一つの苦しみも無駄にならず、一粒の涙も、ひとしずくの血も忘れられることはない。…」と記されているそうです。
他の何ものによっても代用できない独自の価値を持っているはずの人間が「なぜ生きなければならないのか」と生きる目的も知らず、何となく惰性で毎日を過ごしている者が多いのではないでしょうか。なぜ、自殺をはじめ、平気で人を殺すような事件が頻発するのでしょうか。
聖書は命の大切さを「殺すな」という言葉で教えています。これは旧約聖書に記された十戒の第六番目に記された神の命令です。この戒めは、たとえどんな状況であろうとも人を死に至らせる行為を厳しく禁止し、人間が犯す罪の中で人を殺すことがもっとも大きな罪であることを教えています。
この戒めの基礎にあるのは、あらゆる生命は神に属しているという考えです。人の命を奪い、自分勝手に取り扱う行為は、命の源である神との関係を断ち切ることになるのです。
イエスは「殺すな」という神の命令を大胆に拡張し、人をののしり、侮蔑し、怒りの表現までも殺人行為とみなし、さらに人を生かし、隣人を愛する戒めとして命じています。
そのイエスご自身が「わたしが命のパンである」と自己宣言された言葉を今年度の聖句として選びました。この言葉は命というものの本質は、命それ自体から説明する試みには限界があること。命についてのあらゆる問題はイエス自身の人格と結びつけて、はじめて納得できる答えを見出すことができるということ。すなわち、命とは何かではなく、命とは誰かという問題を探求することです。すべての命の源泉はイエスであり、私たちの命もイエスと切り離しては考えられない命なのです。
そのイエスは、命のパンとしてこの世に降ってこられたことを聖書は伝えています。命の源泉であるイエスというパンを食するとき、生きる者の魂の飢えと渇きは癒され、満たされるのです。
しかし、命のパンであるイエスを食するとはずいぶん謎めいた言葉です。命のパンであるイエスを食するとは、聖書の言葉を貪欲に学び、イエスの生き方を不十分であっても、受け入れて追い求めて生きることです。それは礼拝を通して、イエスと向き合う時、イエスを通して与えられる活力ある命なのです。
先行き不透明な世情が続く中、多くの者が生きる目標設定を見失う中で、自分が生きる価値や意味を肯定し、自らの命を存分に生かす道を見出すことは容易なことではありません。しかし自分の命のみでなく、他者の命をも包み込み愛する道が、イエスによって備えられているのです。命と愛の源泉である聖書を学び続けてゆきたいものです。 |