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司式 鳴坂明人(本校宗教主任) |
| 前奏 |
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木原妙子(本校音楽科) |
| 讃美歌 |
151番
1.よろずの民、よろこべや、
主イエス 陰府にかちませば、
死のちから はや失せはて、
ひとのいのち かぎりなし。
(2.3.4.)
アーメン |

一同 |
| 聖書朗読 |
ルカによる福音書24章13〜16節 |
鳴坂明人 |
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ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 |
| メッセージ |
「復活のキリストと共に」 |

中村 清 牧師
(日本キリスト教団 横浜磯子教会牧師) |
このエマオの途上の話しは、今の私たちにピッタリではないでしょうか。まさにこのエマオへの道を歩んでいる弟子とは私たちのことではないでしょうか。神が与えてくださっている目的地に向かって歩み出している私たち。主イエスが私たちと同行しておられますが、私たちには「目は遮られていて、イエスだと分からない」(16節)のです。この「遮る」という言葉は原語のギリシャ語では「クラテオー」と言い、「堅くつかむ」「しっかりとらえる」という力強さを表す言葉です。このときの弟子たちの目は、イエスの空っぽになった墓に強く向かっておりました。彼らの目は強く空虚な墓にとらわれていました。そのために、ここにいるキリストがいてくださるのに見えていないのです。わたしたちもキリストとは別のことに思いがとらわれているならば、キリストが共にいてくださる現実を見ることが出来ないのです。
わたしは高校2年生の時にはじめて教会へ行きました。自分の目指すべき道がわからなくなったからです。思うように成績は上がらず、高校に入学する時ははっきりとしていた将来への道が見えなくなったからでした。そのために自分なりに苦しみました。
そんなとき、ふと教会に行ってみようという思いが与えられました。同じクラブの友人にそのことを話し友人と一緒に教会へ通うようになりました。するとどうでしょうか。聖書の話しを聞くことがとても楽しくなり、心が燃えてきて、学校で勉強することも楽しくなってきました。徐々に成績も上がっていきました。そして自分の目指すべき道がはっきりと見えるようになったのです。高校3年生の時洗礼を受けました。この時、わたしにとってのエマオへの道で、キリストが私たちと共に歩んでくださった現実をはっきりと知ることができました。 |
| 祈祷 |
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中村 清 牧師 |
| 後奏 |
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木原妙子 |